日記

ニュー·センチメンタリティの記録

2024/03/26

K-POPアイドルのコメント欄も日本のそれと大差ないはずなのに、個人的に眺めるのに心理的障壁が少ない。おそらく、和訳だからである。硬い日本語に訳されているからであろう。「좋아🤍🤍🤍」に「訳す」を押して「好き」と表示されること、「好き🤍🤍🤍」と直截的に表示されることの違いがある。

 

 

 

 

・長谷川白紙が「エアにに」で述べていたことを、実感する1日だった。身体性から離れたい。たとえば雨と風で髪型が乱れて写真うつりに悶々とするのは、もう辞めたい。楽器を弾いて歌を歌うと、この卑小な身体から解き放たれる気がする。番組で投稿が読まれると、文字となって自分が広がっていくような気がする。ライブを生で観たいが、観ている自分は観られたくない。紛れもない自分の身体がそこにあるから。思念で存在したい。しかし、身体をさらけ出しているステージのあなたに対して、そんな狡い事はできないとも思う。

 

 

 

・ライブを観ているのは、たしかに紛れもない自分の身体ではあるが、音楽を通して身体性が拡張している可能性もあるのではないか。先ほど「楽器を弾いて歌を歌うと、この卑小な身体から解き放たれる気がする」と書いたばかりであり「音楽を聴いて……気がする」にも演繹できるはずである。もちろん個人の範囲内では。

 

 

・写真をゲームの世界へ演繹。
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